植民地時代①
ヴェトナムとヨーロッパとの交渉は17世紀には始まったが、19世紀に阮朝が成立すると、産業革命を経たヨーロッパ諸国は通商の自由と拡大を一層求めるようになった。しかしヴェトナムは農業を主産業とする自給自足の経済段階にあり、阮朝政府は鎖国政策をとり続けた。
1802年に阮朝が成立してすぐの1804年、イギリスの使節が通商関係の改善を求めてダナンに来たが、嘉隆帝はこれを許可しなかった。
アメリカも1832年に使節を送ったがこれも拒否された。フランス人はピニョー・ド・ベーヌの活躍後、フランス革命及びナポレオン戦争が起こったのでしばらくヴェトナムに現れなかったが、嘉隆末年以後に再び来航して通商関係の樹立を要求。嘉隆帝はベーヌらフランス人の功績を認めていたので彼らを優遇したが、通商の要求だけはついに拒否し続けている。
1820年、嘉隆帝が死去し、第四子が明命帝として即位した。明命帝もフランスとの通商を認めず、両国関係は悪化する。
関係を最も悪化させた原因はキリスト教迫害であった。嘉隆帝はベーヌの援助を受けていたので当初はキリスト教を保護していたが、ベーヌの死後は態度を変えた。明命帝の時代になると弾圧が激しくなり、1825年以降、キリスト教徒の迫害が続いた。
1840年のアヘン戦争はヨーロッパの強大な軍事力を見せつけ、驚いた明命帝は使節を派遣して政策変更を試みるが、フランス側は極めて冷淡であった。
1841年に明命帝が亡くなると、紹治帝が帝位を継ぐ。イギリスがアヘン戦争を機に香港を割譲させ、莫大な賠償金を獲得したことを見たフランスは、対ヴェトナム政策で強引な武力制圧をはかろうとする。
1847年2月、フランスの軍艦がダナンに入港し、投獄されていたフランス人宣教師5人の釈放を要求する。紹治帝がこれを受け入れると、軍艦はダナンを去った。
しかし3月になると再び軍艦がダナンに来航し、停泊していたヴェトナム艦隊を砲撃し5隻を撃沈した。フランス側の要求は宣教師の釈放であったが、ヴェトナム側は数日前に釈放しており、フランスの攻撃は誤解によるものだったという。
この砲撃事件がヴェトナムの態度をさらに悪化させ、1847年に嗣徳帝が帝位を継ぐと、キリスト教の弾圧が再び激しく行われるようになる。ナポレオン三世は1857年に大使を派遣してキリスト教解禁を要求したが、阮朝政府はこれを拒絶した。
フランスは武力侵攻の機会を狙っていたところ、スペインの宣教師がトンキンで処刑されたので、1858年8月、ナポレオン三世はスペインと連合してヴェトナムのダナンに侵攻した。1859年には南部コーチシナを急襲し戦線を拡大、各拠点を奪取しジャディン城を占領する。
1861年、中国とのアロー戦争に出向いていたフランス軍が再びヴェトナムに来航し、ヴェトナム各地を攻撃した。ヴェトナム側は全線戦にわたって敗退した。
参考文献
石井米雄・桜井由躬雄編『東南アジア史Ⅰ』山川出版社、1999
小倉貞男『物語 ヴェトナムの歴史』中央公論新社、1997
古田元夫『ベトナムの基礎知識』めこん、2017
松本信広『ベトナム民族小史』岩波書店、1969