日本による北部仏印進駐②

 

 仏印との交渉をやり直すにあたって、まず中央部の意見を一致させるべく東京で話し合いがもたれた。そして1940年9月13日、現地交渉の成立に努力するが、その成否にかかわらず22日0時以降は自主的に進駐することが四相会議にて決定された。

 

 9月17日、頓挫していた西原少将と仏印当局との現地交渉が再開した。

 東京の四相会議では進駐期限を1日延期し、23日0時以降に行うこととなった。

 

 交渉の末、22日の16時半に西原・マルタン協定が署名された。これは予定時間の7時間半前であり、進駐の準備をしていた国境近くの第五師団には至急情報が伝達されねばならなかった。また、実際に23時ごろ、中村第五師団長は署名終了の通報を受領した。

 

 しかしながら、「進駐中止の命令」が第五師団長のもとに届いたのは、23日0時40分頃であり、すでにドンダン要塞への攻撃が開始された後であった。

 

 なぜこのような事態となったのか。

 

 まず、中村師団長は以前から「西原少将の通報に兵団は関係すべからず」との厳命を受けていたという。したがってこの観点では、署名終了の通報だけでなく、改めて大本営から命令が発せられねばならなかったと考えられる。

 

 ではなぜそのような処置がなされたなかったかといえば、秦郁彦はその理由として①参謀本部作戦部に武力進駐を切望する空気があり、故意に命令発出の手続きをとらなかったことと、②沢田茂参謀次長が、現地の富永恭次少将にこのような場合の中止権限を与えてあるので改めて指令を出す必要はないと判断したことを指摘している。

 

 それでも22時には武力進駐中止の方面軍命令が第二十二軍に届いたが、中村師団長に伝えられたのは0時40分であり、おそらく故意に遅らされたものとみられている。

 

 その後、戦闘はランソンまで拡大し、26日にフランス側守備軍の降伏をもって戦闘は終結した。

 

 

 

 

参考文献

秦郁彦「第二編 仏印進駐と軍の南進政策」『太平洋戦争への道6 南方進出』朝日新聞社、1987 

 

 

 

 

 

    著書