ヨーロッパ人来航
1511年、ポルトガルのアルフォンソ・デ・アルブケルケがマラッカ(マレー半島)を占領し、以後、ポルトガル人が相次いでインドシナの沿岸に達する。
16世紀を通じてポルトガル人がヴェトナムとの交易を牛耳っていたが、17世紀に入るとオランダ、イギリスも介入しはじめる。
1613年、イギリスは通商開始をはかったが交渉にあたった商館員と通訳が殺害されてしまう。また、その後はポルトガルとオランダの妨害にあう。
この頃の貿易は広南阮氏の支配権との間に行われており、貿易港は主としてホイアンであった。
1636年、オランダ人は広南阮氏と通商関係を構築し、商館を建設する。一方、1637年にはトンキンの鄭氏とも貿易を開始する。ヨーロッパ人が歓迎されたのは、火器その他の援助を期待されたためであった。
ただし広南阮氏と鄭氏の双方と関係を持ったことから、1641年には広南阮氏の領域であるホイアンにあるオランダの商館は閉鎖された。そして鄭氏はオランダ人、阮氏はポルトガル人を頼るという構図ができあがった。
1642年、オランダの艦船が広南阮氏を攻撃して大敗、1654年には阮氏とオランダの通商関係は途絶した。
フランス船は、1669年、イギリスより先にトンキンの紅河に入るが、サムエル・バロンが商館の開設に成功するのは1680年のことである。
イギリスは1672年にようやく鄭氏との通商に成功し、1683年にはハノイに商館を開いたが、内部分裂や妨害、不正に悩まされ、1697年には閉鎖した。
またこれらと同時に、キリスト教の布教活動も広がっていく。
参考文献
松本信広『ベトナム民族小史』岩波書店、1969