北ヴェトナムへ寄付金を届けに

 

宮城 だから、あれは1974年やったか。ヴェトナムへ行ったときはすでに京都市仏教会で。この辺の組長持ってたんだ。それで、いろんなお寺の世話もしながら、ヴェトナム救援という形で大西良慶さんが代表委員になって、京都市民からお金を集めて、そのお金を北ヴェトナムと南ヴェトナムとへ届ける。僕は率先して「北へ行く」と言った。その頃、共産圏というのに関心を持ってたの。ヴェトナム戦争中は、南ヴェトナムの政権というのはアメリカの傀儡(かいらい)政権と言われていたし、アメリカと結ぶ中で保守派になっていって、革新派の良識あるお坊さんたちを、「虎の檻(おり)」という、言ったら収容所に放り込んだり、お寺から知識人のお坊さんを迫害して、思想犯として牢獄に放り込んでる。それ以外にも、あれは1963年やったと思うわ、ティック・クアン・ドックっていうお坊さんの「焼身供養」っていうのも。日本では、「焼身自殺」というふうに新聞社書きよったけども、そういう抵抗があったし。そこまでして、やはり仏法を守っていく。

 北へ行くということについては、簡単にビザが出るわけやなし。北へのビザは出なかったわけやからね。パリの代表部へ行ってインビテーションもらってタイランドへ、タイランドからラオスのヴィエンチャンへ行って。それで、ヴィエンチャンの北ヴェトナムの大使館か領事館か行って入国のビザを出してもらって、ヴィエンチャンからハノイへ飛んだ。だからハノイへ入るのに、バンコク、ヴィエンチャン、ハノイやから3日かかる。もちろん支援金は円で北ヴェトナムへは持っていけへん。タイランドの銀行に送金して、そしてタイランドの銀行でドルに変換して。大金持って歩けへんさかいに、北ヴェトナムへ送金したという銀行の証明だけを持って北へ行った。

 

(岩間註:1963年の「焼身供養」については拙稿「メディアとしての焼身――1963年、ティク・クァン・ドックの事件をめぐって」(『表象』(4)、表象文化論学会、2010)をご参照ください。)

 

岩間 それが、1974年ですか。

 

宮城 そうなんです。だから、その頃はもう戦局はほぼ終わりに近づいとったわけや。休戦協定ができたのが1972年やわ。1972年の何月やったか忘れたけど、暮れも押し迫ったころに休戦協定ができて北爆が停止されていた。一応の平穏は戻っていたかな。戦時体制ではあるといっても。

 北ヴェトナムへお金を持っていく役は3人。インビテーションは3人とかだったけれども名乗りが出えへんの。やっぱりみんな「ベトコン」の世界へ入るっていうのは。当時の坊さんがたは、共産主義というのはやっぱり嫌おとったな。出発前に大西良慶さんのところへ挨拶へ行ったんや。そうしたら、大西良慶さん、当時90……幾つや。956やったかな。その良慶さんが、「あんたらが行かはるか」と言って。「あんたが行かはるんとな。ごくろうさんやな。帰ってきはったらな、あんたらは、きっと赤い坊さんと言われるやろな」と。「だけど、赤い坊さんと言われてもな、わしも昔はそうやった。人は、『大西良慶は人を食う坊主』みたいなふうに、わしを言いよった」と言うてはったわ。「この年ぐらいまでになると、同じこと言うてたら人も、もう何も言わんようになります。せやから頑張りよしよ」って。「えらいこっちゃなあ」思たな。ほんまに。1974年さかい、僕が1931年生まれさかいに、40……幾つやろうな?

 

岩間 43

 

宮城 43や。大西さんの半分にもなってない年や。「えらいことを聞いた」と思った。だんだん近づいてくるけどな。それくらいに人が言う時代やさかいに、なるほど、僕と五十嵐隆明さんしか名乗りを上げなかった。五十嵐隆明さんというのは、永観堂禅林寺、西山禅林寺派の管長さんであり、永観堂の法主になられた五十嵐隆明さん。今から3代前の法主や。その人が、龍谷大学で僕より1年後やったんよ。

 

酒井 はい。

 

宮城 んで、良き仲間ができて、2人とも京都仏教徒会議というところの、京都宗平協の前身や。

 

酒井 京都仏教徒会議。はい。

 

宮城 京都仏教徒会議で仏教の現代化運動というのに取り組んでいたところの事務局長をしてはってん、当時。今もう八瀬に移転してあらへんけども、三条の大橋下がったところにあったお寺、養福寺というお寺に住んではった。

 それで、2人で行くことになってね。ハノイ着いたら、そのビザ、インビテーションを、さっさと空港へ降りたら「イの一番」に見せりゃええものを、入国に当たって「自転車を持っているか」とか「ミシンを持っているか」とか、いろんな質問をされる。それを書くのに、「これは、一体どう書くんやろうな?」って、とにかく英語の字引引きながら2人でやっとった。時間かかる。2人とも平服やろ。洋服で行ってるさかい。ほいで、1歩外では、「この飛行機に、日本のお坊さんが乗ってきてるはずやさかいに、坊さんを見付けたら、すぐ連れてこいと」いうことになってたんや。「坊さんは乗ってません」いうことになったんよ。「おかしいな」っちゅうわけやね。で、ようやくのことで、「あ、これは五十嵐さん、あの文章見せたら何とかなるかもしれん」言うて、それでインビテーションを見せた。そしたら途端に、もう何もかもほったらかしよ。「ああ、どうぞ」っちゅうわけで、荷物、パタパタと閉めてしもうて。ほいで、丁重に外へ出してくれたら、皆が外で待っててくれた。30分ほどロスタイムがあった。

 

岩間 向こうで迎えてくれた人たちっていうのは、どういう人たちなんですか?

 

宮城 ニャンザンの編集長のファン・トンが出てきた。長いこと編集長してたわ。それと、仏教会のメンバー。

 

岩間 仏教会のメンバーですか。

 

宮城 それから、そのほかはお坊さん。書記長がトップで、そのほかに尼僧さんもおったし、お坊さんもおったが、4、5人のお坊さんが待っとった。

 それで、すぐにどこへ行ったか。記録の中に書いてあったかな?写真見たら分かるかもしれんな。そういうふうな動きで、まず入国したんよ。滞在したのは1週間たたずだったね。6日ほどだったと思うわ。ちょうど11月、ガスの多い時期で、視界が不良の時期やったな。そこでやった仕事というのは、公的には支援金を向こうのお寺に届けるということで。今でもハノイの仏教会の本部のあるクワンス寺、ヴェトナム語でどう言うんか知らんけれども、「カン」は「館」っちゅう字ね。それから、「使う」という字ね。館使寺やね。

 

岩間 館使寺。

 

宮城 そこへ行って、支援金の伝達をして。参拝というか、軽い法要をして。それで歓迎会に臨んで。

 

岩間 支援金って、お幾らぐらい渡したんですか?

 

宮城 支援金はですね、募金経費を引いて集まった540万円を、3等分してその2分の360万円を北ヴェトナム統一仏教会、臨時革命政府下の仏教会に贈呈しました(※残りが南ヴェトナム仏教会)。

 

岩間 へー、そんなに。

 

宮城 ええ。僕ら、その当時、派遣っていうたって自費で行ってるんですよ。

 

岩間 はい。

 

宮城 市民の善意で集めた金は届ける。

 

岩間 全部届ける。

 

宮城 そうなの。全部届けると。私らも、自分の金をとにかく出そうやないかと。貧困の世界へ届ける金からもらうなんてこと、できひんから。

 もちろん、一緒にいろんなお土産持っていきました。ラジオと、それから薬品と、血圧計と、持っていきました。薬品は胃腸薬、行くっていうことについてお話をして、支援をしてくれるグループからもらうさかいに、くれるものを持っていくんやから。あれ、胃腸薬やったと思う。それが向こうの人に効いたかどうか分かんないけどな。それと、血圧計は旧式の血圧計や。ピーッと水銀つながるやつで。それから、ラジオが何台や、3台あったかな。薬は大日本製薬からもらってったし、ラジオはナショナルへ行ってもらったし。血圧計は、どこでもらったんかな?これは五十嵐さんが持ってってくれたんで、ちょっと分かんないんだけども。そういうふうな支援物品も持ちながら、だね。

 向こうの方は、北爆がいかに非人道的なものであるかということを告発するのがやはり第一の仕事やったな。破壊された跡が相当克明に残っているところに連れていってくれた。復興しつつあるところも連れていってくれたけど、復興の度合いは遅かったわね。それから、破壊された寺院へ行って、そこの寺院の信者とお坊さんと交流をするという仕事。その全てに、ニャンザンの人と、北ヴェトナム政府の宗教担当者が必ずどこへ行くのにも同行した。それは、共産圏の通例やわ。

 

岩間 そうですね。

 

宮城 使用してくれた車は日本のトヨペットやったな。もうすでに医労連から向こうへ寄附されていた。中古車やったけどな。それで走った。

 

 

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