北爆の傷跡を見て
宮城 ヴェトナムでも、バクマイ病院というところを視察したときに、それも北爆で完璧にやられて、辛うじて手術室残ってたよ。ある部屋で手術室になっとんやけれども。僕らが視察に行ってるときでも、血まみれのおばさんが運びこまれてきた。ボール爆弾。いわゆるクラスター爆弾やね。
酒井 ああ。
岩間 はい。
宮城 それが、あっちこっち、農道に落ちてるわけや。うっかりやると、それがバーンと爆発するわけよ。
岩間 不発弾が。
宮城 ものすごい破片ですわ、あれは。細かい破片。もう肉体に食い込んだ破片を取り出すのは大変なことやね。そのおばさん、死んだか生きたかどうか知らん、あとは分からんかったけども、血まみれになって運ばれてきた。不発弾を農作業中に引っかけたんですよね。今、そういうのを見ても、目を背けたくなる世界やけども、僕らは「足に何箇所ぐらい、その傷痕、傷が入るのかな」、「クラスター爆弾というのは、こんなもんなんなか」って。手術室へ入るまで克明に、苦しがってはるのに、まあ、観察する側には回るというね。そういうこと、平気でしたんやね。
新聞社の、自分のそういう性格が野次馬根性になって、「歴史が変わるときには見てみたい」というふうなものになって、ヴェトナム行かしてもらったことになるし、それからまた、そのあと、中国が越境してヴェトナムの北のランソンを攻撃したことがありました。赤旗の高野記者がランソンで狙撃されて、彼が死んだ。すぐその後にも行った。破壊された家がこないなって潰れているときにね。そういうところはすぐ復興されていくが、高野記者が死んだ場所だけは、一つの聖域のようにエリアで囲まれてて、「高野記者が、ここで射殺されたんだ」という説明板が立てられてあったね。明らかに、それは国境から相当入ったところなんだけどね。やっぱり中国の影響が、その後、カンボジアに及んでいくわけですよね。
ランソン行ったのは、その最初に行ったのとはまた別の時なんだけども。最初に行ったときにもう一つあったのは、どうやって彼らがアメリカに抵抗したかというのを見せるために、たこつぼの防空壕だとか、打ち落とした、あるいは捕獲したアメリカの兵器、飛行機、そういうものの展示を見ました。今でもそれはハノイに置いてある。それから、面白かったのは、北爆下でも、北爆っていうのはみんな昼間やるんですってね。夜は飛んでこないんやて。当時は電子機器がないから、夜は目標が定めにくかったんでしょう。夜になると、サーカスをやっていたんだ。夜になると人々は活気づいて、テント作りのサーカスをやる。僕らもそのサーカスを見に行った。結構危険なサーカスよ。空中ブランコもあるしね。照明こそ、あんな見事な照明あらへんけどね。「これを、戦争中もずーっと欠かさずに続けてました」いうニャンザンの説明やった。
「どうして厳しい北爆の中で、あなた方は生きてくることができたのか」という質問をしても、「昼間は隠れます。壕にも入るし」。アメリカが落とす爆弾は、日本と違って破壊爆弾やねん。それから殺傷爆弾やねん。「だから、地面の中へ隠れます。横穴もあります」と。もちろん、民家から離れたところへ行くんやね。それから、「夜になったら人々は出てきて、ふだんの生活に戻るんです」と。あの頃は、空襲警報が鳴ったら間髪置かずに艦載機が飛んでくる。空襲警報鳴ったら10分以内に身の安全を確保しないと殺される。やっぱり、それだけジェット機っていうのはすごい破壊力を持ってるんだね。
カム・ティエン区っていうところへ行きました。カム・ティエン区は、幅が500mの、長さが2,500m。一区画がカム・ティエンという町。これ、ハノイの中にある町。その周辺も含めてやろうけども、そこを中心に絨毯(じゅうたん)爆撃で。そんだけが廃墟になるのはたった10分やて。
酒井 はあ。
宮城 破壊爆弾ね。大体ヴェトナムの家は石や煉瓦で建ててあるの。壁、漆喰(しっくい)で塗ったり、泥を塗ったり。石が全部崩れ落ちるわけですよ。完全に、その一画は石の山や。大きな建物なんかが崩れ落ちたときの話を聞いたんだけども、たまたま家の壕(ごう)の中に避難したおばあちゃん、「体が半分ぐらいになってました」って。上からドドーンと重いのが落ちてきて、体が潰れるんやね。内蔵も血液も全部、ひしゃげて出てしまうんやね。「体が半分ほどになります」って、重さで。そういうふうな死に方もする。
そのカム・ティエンの一画に、母親がこう、死んだ子供を抱いて建ってる像があったんよ。白くコンクリートで作られた。その下に書いてあった言葉、たしか、「この恨みを忘れない」やったかな。何かそういうふうな言葉が、そこの爆撃のあった日付で書いてあったな。それでもニャンザンの編集長は、「やがて、戦争は、わたしたちが勝つでしょう」言うたんだ。「やがて戦争は、わたしたちが勝つでしょう」。で、「平和な時代になっても、これは、その平和を作りあげるための一つのメモリアルとして残していくようにしたいと思います」というメッセージで、僕らを連れていってくれたね。
後日談があるんやけども、1900……何年だったかな。90……。京都仏教会で行ったんが1995年やったか、1990年代に行ったんですよ、そのカム・ティエン区へ。付いてくれたガイドに、「カム・ティエン区へ行ってくれ」って言ったら、「何を買いますか」って言うさかいに、「いや、ちょっと見たいものがある」。「この辺、カム・ティエン区です」って。もう立派な商店街に生まれ変わってんのよ。「ここにメモリアルがあるやろ。平和記念かなんか知らんけど、メモリアルがあるはずや。母親が子供抱いて立ってるメモリアルがある」と。「そんなんは、ありませんよ」と言うんよね。「いや、ある」って言ったら、「いや、僕は知りません」って、ねえ。「おまえ、ガイドやろが」言うて。「この一角が、空襲で焼け野原っていうか、破壊され尽くした」って言ったら、「ハノイ全部潰されました」言う。それはそうや。「そのときに、このカム・ティエンが破壊されたときに、こういうことがあったんや」と、「その母子の像を、ニャンザンの編集長が、そう言うて『残す』言うとったけん、残ってるはずや」と。ほいで、市場のほうへ、こう行ってみてくれた。あったのさ。もう小さく、ほんまに奥まったようなところで。それで、像が茶色く塗られちゃった。で、その商店街の人に、「ここで、つい二十数年前に、こういうことがあったんや。それで、この母子の像、そういうことについて知ってるか?」って通訳通して聞いたら、「そんなこと知らんよ。お客さん、何買うんや?」と聞いてくるんや(笑)
というように変わるんや。ヴェトナムの変わり様は、すごいよ。復興というのか、資本が入り込むというのか、とにかく外国人見たら、「買うの?買わないの?」って言うわけやな。ガクっとしたな。いつまでも、それを恨みに思ってたんでは、それはだめでしょう。うん。でも、忘れちゃならん・・・
岩間 うん。そうですね。
宮城 ・・ことがあるな。
(※2012年には、母子像はブロンズで新しく作られ、メモリアルとして再生していた。環境も整備された。)
酒井 そうですね。
宮城 うん。結構、現地の人が忘れるんや。そういうふうな。ま、「忘れるさかい、人間は生きていける」ということを、よく言われるけど、忘れるということ、それから記憶にとどめるいうことは、大事なことやね。
酒井 先生、なぜ、現地の人は忘れるんでしょうか?
宮城 まず、戦後の、僕が推察するのにはですよ。恐らく、あの短時間であんだけの町に復興するのは、復興に相当のエネルギー使うてると思うわ。それこそ北爆のことを語るよりも、復興のことに関心を持つことのほうが中心やったんやないのかなと。それから、カム・ティエン区の、その古い住人が、その商店街をやってるのかどうかっていう問題がありますね。だから、そういうの検証するときには、もっと時間をかけて検証しないと、推測でしかもの言えへんのが残念だよね。急激な経済成長を遂げる中で、忘れられていくんやね。
日本だって、そうじゃないかと思うんだけどな。それほど急激ではないけれども、まあ、スピード速いほうやと思うわ。第2次世界大戦のあと、復興していくのは。まず、第1次の経済成長は朝鮮戦争でしょ。その次の第2は、ヴェトナム戦争でしょ。その時期に、日本、軍事産業はものすごく儲かったんやから。附帯して、いろんな産業、建築、職業も、全ての産業が上向いてくるし、米貨入ってくるし。360円やったドルは、どんどん値打ちを失のうてくぐらいになってくのやし。日本も相当のスピードで復興していく中で、「そんな過去のことにこだわるよりも金や」って言う人たち、今でもいるやんな。それのもっと典型的なとことちゃうかなと。
それにヴェトナムっていうのは、華僑(かきょう)がようけ入ってきてるからな。
酒井 ああ。そうなんですか。
宮城 うん。日本は華僑が入ってきいひんだけ穏やかやけれども、華僑入ってきたら、商売の戦争やからな。そういうようなことは、ちょっと感じましたわね。当時のヴェトナムというのは、支援物資で生きていた。ハノイ。わずか1週間ほどしかいなかった。
帰るとき、最後にニャンザンに招かれて、「あんたがたがヴェトナムで見聞して、何をお感じになりましたか?」っていうことを聞かれた。感じたままを率直に言うたけども、その最後に、五十嵐さんとも話おうてた中で言うたことは、「戦争が、今、一時休戦状態になって、やがて終わりを告げるでしょう。この歴史をどう残すか、ていう問題は大きな命題になってくる。平和な時代になったときに。日本は平和な時代になりました。平和な時代になりまして、われわれが戦争中に学び、しかも、それを忘れ、失のうたことがたくさんあるように、人間というのは、平和になったときに忘れることが多いかもしれんけれども、今のヴェトナムの、北ヴェトナムの人たちが大事に思っている、望んでいる平和というものが来たときに、今のことを忘れずに伝承していくという努力が必要なんじゃないでしょうか。ヴェトナムがどのように変わるか、私たちには分からんけれども、どのように変わろうとも、そういう思いだけは、きちんと総括して持っておかねばならんのんだろうというふうに、僕らは思います」言うてね。
で、そのあと行ったら、さっきの1990年代のカム・ティエンのその話もあるわけなんやが、政府がどのように考えてるかやな。