北ヴェトナムの印象
宮城 ヴェトナム人ていうのは、その後、南へ行ったときも思うたけど、勤勉やなと思うた。朝も暗いうちから起きてきて働いとるわ。まあ、考えてみりゃあ、電気がないところなんですよ。暗いうちから起きて、にぎやかに町の中では政府の放送ががなり立て、皆が外へ出てきて外がほうっと明るうなってきたらもう行動できるわけや。夜は暗うなったら家へ入らな作業できへん、仕事できへん。だから、なるほど朝早いのは分かった。けども、日本やったらどうやろな。やはり、何ぼ電気がない自然の明かりの中でやらなんとなっても、今の人はそんなことようせんやろ。
連れていかれた先々で支援の人々と会うて、お寺へ参ったときに、北爆停戦されて2年目に入っていたとはいえ、まだまだ荒れたままのお寺。そういったところで集まってくる人たちが、得度を受けている信者さんね。優婆塞(うばそく)、優婆夷(うばい)や、日本でいうと。それから、単なる信者と。服装ももちろん違うねん。得度を受けてる人たちは白い着物着るの。一般の人たちは普通の服。でも、お寺ではヴェトナム座り。横向きにベッと足出して。正座はしないんですよ。ヴェトナムだけやなしにビエンチャンでもそうであったから、お寺入ったときの座り方なのかな。そういう座り方っていうのは、僕は、あんなけったいな座り方。こういうふうに、こう座らはんねん。
酒井・岩間 ああ。
宮城 そうしたら、僕やったら、こんなんで、こう寝てまうやん。こういう座り方をして、こうして毎日いはる。体が柔らかいの、それだけ。
酒井 なるほど。
宮城 それで熱心にお参りしてはんの。礼拝してはんの。そりゃ、敬けんやったな。日本でお参り来る信者さんっていうのは、そういうふうな座り方せえへんわな。正座して参拝しはるぐらいか、あるいは立ってる。こうして体をぺちゃーって床につけはるのは、五体投地(ごたいとうち)の変形やろな。敬けんな参り方を感じたね。
それから、よそへ行くと人間は食べるものに関心を持つんやが。尼僧さんがいやはって、お寺の食事は、その尼僧さんというのかな、小乗仏教、ヒナヤーナは、労働しないという基本があるわけなんですよ。だから、食事作るのも、日本でいう、さっきの龍大の典座ね。
酒井 はい。
宮城 禅宗いったら、典座(てんぞう)といいます。
酒井 はい。
宮城 「てんざ」「てんぞう」は、一緒ですわ。だから、典座もお坊さんがやるんやから、館使寺も典座おったんやろうな。食事なんかは尼僧さんがこしらえて、僕らのご飯を出してくれた。朝は基本的にホテルですけども、昼、そして、場合によっては夕食は出先で、お寺のごちそうになる。
書記長が、「時代がよくなったら、こういう尼僧さんを日本へ連れていきたいと思う」言うとったけども、その数年後に書記長は死んだからな。
で、その尼僧さんがたがこしらえてくれた料理っていうのが結構おいしいんや。やや中華風?今でも、ヴェトナム行ったら、ヴェトナム料理っての分かるけどもね。大きな器にのせてドーンと出ると、野菜なんか上手な味付けして煮てあんの。ところが、持ってくる途中にハエが乗っかってくるんですよ、一緒に。もう、どこ行ってもハエがいました。だから僕らに持ってくるお料理もテーブルの上に出されたらハエが乗っとんのや、何匹も。今の日本人やったら、ていうか、その当時の日本人でも、ちょっと二の足を踏むな。大っきなハエがね。
五十嵐さんっていうのは、割合にデリケートな人でね。「ああ、これは……」って言うたさかい、「五十嵐さん、大丈夫、大丈夫。おさじで取るねん、それをな。山を崩すっていう方法があります」言うて。普通、上から取るやんか。
酒井 はい。
宮城 それを、山の一番下のところへガッと突っ込んで、ギャッと持ち出すねん。
岩間 中から(笑)
宮城 中から新しいの出るよ。で、それで取んねん。2、3杯それで取ったら上の方がダーッと混じってくるけど、反対側回して、また下から取んのや。
酒井 はい。
宮城 そんなふうにして。別にあたることもないのやけどね。向こうの人は、それで生きとんのやさかいな。
岩間 気分の問題ですよね。
宮城 そう、そう。でもおいしかったですねえ。今のようにデジタルカメラあったら、じゃんじゃか写真撮ってくる。その頃、フィルム貴重やったから、そんなにじゃんじゃか撮れなかったんだよ。惜しかったなあと思うんだけども。
酒井 やっぱり、先生、向こうも精進ですか?
宮城 お精進です。お寺は精進。だから味付けがいるんですよ。そして、飲み物はやはり生水は出ませんでした。大概スプライトみたいな清涼飲料水も入ってましたね。
酒井 当時、70年代のヴェトナムなんですけど、その頃からもやっぱり生水は飲んでなかったんですかね?
宮城 どうでしょうか。地方によりけりでしょう。
酒井 その、アメリカの爆撃があって、水が汚染されたとか、そういうことはないですか?
宮城 枯れ葉剤がまかれたとこなんかは、汚染されていましたね。これは、南ヴェトナムのほうやけどね。ただ、生水は飲まないというふうに僕らは教えられていたから。
そういう中で感じたのは、苦悩。「立て直してはる中で、こんなふうなごちそうよばれていいのかな」ということを、いつも感じたね。泊まったホテル、ダンチュウホテルっていうのがわれわれの宿舎やったんやけども、そのダンチュウホテルに中庭があんのやわ。朝、ニワトリが、「きゃきゃきゃきゃ」って絞められる声すんのよ。窓から見たら、締められたニワトリが、バーッと毛むしられとるのよ、中庭で。「ああ、今日はあれ出るで」言うて。そうしたら、朝ご飯にそれ出んのよ。ホテルでは、お精進じゃないからね。自給自足。あるものでやっていくという感じやな。
酒井 なるほど。
宮城 もちろん冷蔵庫もあったんやろうけれども、そんな保存しとけへんさかいに、お客に出すのは新鮮なもの出すから、その日の食材を使うんでしょうね。いや、すごい。デリケートな五十嵐さんが、「さっきまで生きてたんです」つって。僕は、「うまいですねえ」とか言って。
酒井 どっち派?
岩間 「うまいですねえ」って言って食べると思う。
酒井 そっち派(笑)
岩間 でも締められる音を聞くっていうのは、なかなか。
酒井 命のありがたさをもらったからね。
岩間 そうだね。
宮城 僕は戦争中から戦争後、ニワトリを飼っていて、自分で締めましたからね。ニワトリの締め方も知ってますし、血の抜き方も知ってますし、毛なんかでも上手に抜きますしね。さばくのも。あんまり抵抗を持ってなかったんや。僕は坊主の息子やのに、いいかげん、神経は荒いほうやったと思う。それは、食べるものがない、生きるっていう時代におったからでしょうね。自分とこに集まってるハトを、結構、撃ち殺したし、要するに食べるわけですよ。スズメは空気銃で打ち落としたし。しまいには、もう食べるものなくなってヘビも食べましたし。この庭に出てくる、こんなに長いヘビを。そういうものの命を取るいうのには抵抗のなかった時代ね。つまり、人を殺すという……話はあちこち行くけど、人を殺すいうのは当たり前の生活の中で、小さいときから来たわけやろ。
酒井 はい、そうですね。時代が、そうです。
宮城 うん。そうすると、ハトやらヘビやらつうのは当たり前の話。この頃はよう殺さんけれども、やっぱりDNAみたいな、その性格が残ってるのやろうな、どっかに。そこへもってきて新聞社行ってるときに、死体を見るっていうのは当たり前の世界やったし。今みたいに、シートで隠したりせえへんもんね。電車に飛び込み自殺した人なんかのれき死体、そのまま置いてんのやから。むしろがかけてあるのが、せいぜいのところやった。僕ら、その現場いって、むしろ開けて、「あ、ひどいなあ」とかね。そういうのを無神経で見て。だから、今でも平気なんだな、やっぱり。うん。ちょっと、そういう時代のことが残ります、人間っていうのは。「デリケートさがない」って言われるんですよ、息子には。
酒井 ちなみに、先生、僕、これからも、いろんな海外とか行ってみたいなと思うてるんですけど、ハエが乗ってても平気です。
宮城 ああ、そうか。それは大いによろしい。