アジア仏教徒の人間交流へ

 

宮城 そのあと何回もヴェトナムには関わり続けたわけやけど、関わり続けた中で第1に大きなのは、そのときに結ばれた仏教徒の人間交流が、アジア仏教徒平和会議というものを通じて、モンゴルであったり、ソ連であったり、そういったところに繋がっているということ。一緒に行動したお坊さんが平和会議に参加して、仏教の平和理念について語り合うことがあったし。それから、そういうお坊さんたちを日本へ呼んだこともある。

 1995年に、これは僕らが呼んだんじゃなしに、アジア仏教徒会議の日本センターが呼んでくれたヴェトナム、カンボジアのお坊さん代表団を日本へ招へいした。「京都も、歓迎委員会こしらえてくれ」と言われて、歓迎委員会を立ち上げてお坊さんを呼んだんですよ。ヴェトナムから2人、カンボジアから1人のお坊さんが来た。そのお坊さんを連れてあちこち回る中で、三千院へ行くのに私が当番になって、三千院へその人たちを連れていきました。「どっかで見た坊さんやな」と思ったけど、向こうのお坊さんちゅうのは、日本の坊さんも頭丸めて僧衣着てたらあまり区別つかへんのんと一緒で、あまり気にも留めなかったの。ティック・ミン・チャウていうお坊さんは、南ヴェトナム仏教会の代表なんや。この人は、南ヴェトナムへ支援金を届けていったころから活躍していた人。戦争中、「虎の檻」にも入れられた人。で、もう1人のカンボジアのお坊さんは、ずっとカンボジア支援の中でつきおうていたテップ・ボーンさんで、これもよく知ってる。もう1人のお坊さんが、分からんかった。「北ヴェトナムからや」っていう話で。北ヴェトナムで会うてたかもしれんな。

 三千院へ行ってお参りをして。三千院のご門主と出会うて、一緒にお昼ご飯の席になったときに、その北ヴェトナムのお坊さんが、「私は、宮城さん、知っています。あなたとは、これで2回めですけれども」って言わはって。途端に思い出した。「ああ、望宮寺のお坊さん」。「ぼうきゅうじ」っていうのは、「望む」っていう字。「きゅう」はお宮さんや。「宮」。「望む宮の寺」のお坊さん。

 

酒井 はい。望宮寺。

 

宮城 はい。「あんた、望宮寺のお坊さんティック・タン・トンや」「そうです」って言って、袋の中から1冊のこんなノートを取り出しはって。厚さ、このくらいの。「あ、それ、その中に僕の名前が入ってあるし」言うたら、「あ、思い出しましたか」。

 

酒井 へえ。

 

宮城 望宮寺というのは立派なお寺やったんやけど、北爆で完全に更地になってしもうて、土台だけ残してなくなってしもうた。

 僕が行ったときには、そのお寺の周辺に竹で矢来をこしらえて、一角をきれいにして、この矢来の中に本堂を再建する予定ですと。で、そこのところだけ聖地になっていたけどね。その矢来の中に仮小屋を建てて生活してはった。そこで僕ら話をしたんよ。そのときに、「おいでになったことを記念して、一筆書いてくれ」言われて、それを出されたんで、墨で書いてきたんやわ。

 

酒井 ああ。はい。

 

宮城 それを思い出してね。「2度あることは3度ある。もう1度お会いする機会があるでしょう」言うたんやけれども、機会がないが、多分、もう亡くなってるな。それから、もう15年やからね。生きてはったら、僕よりちょっと上ぐらいやからな、もう85ぐらいになるはずやろう。生きてはったらいいけども。その後、ハノイへ1度行ったんだけども、望宮寺は聞かなかったからな。そんだけの自由時間がなかった。ちょっと山手のほうにあったんで。今でも、ちょっと心残りではあるな。

 

岩間 その74年のときの出会いが、いろんなことにつながってるんですね。

 

宮城 そう、そう。そういう人がまた平和会議に参加してね。日本へも来はるようになったし。「日本へこうして来られて幸せやった。書記長は残念やった」言うて。で、そのときに初めて、「あなたがヴェトナムへおいでになって7、8年のちに、彼は死にました」ということを聞いた。

 

岩間 74年に行ったときのグループは、京都仏教会の「ベトナム救援……」

 

宮城 ああ、「ベトナム救援京都仏教徒委員会」。

 

岩間 それは、どういう会だったんですか?

 

宮城 それは、それを立ち上げたのが、さっき言った募金活動したわけでしょ。そのお金を集めて、向こうの仏教復興運動に役立てていこうということでこしらえた委員会なんで、支援金を向こうへ伝達した段階で解散です。

 

岩間 では、そのときに作られたんですね?

 

宮城 そう。

 

岩間 ということは、74年に。

 

宮城 71年ぐらいで金集めたから、73年ぐらいでしょう。それを、こしらえたんは。74年に、その金を持ってたんだから。

 ただし、それがもとになって、「カンボジア・ベトナム友好交流歓迎委員会」か、そういう名前の会ができるんですよ、その後。それは、もちろん1980年以後のことやけどな。カンボジアが完全にポル・ポトから解放されて、仏教会も人数が増えてきて、活動するようになってくんのは。そういうふうな形でいくようになる。

 その間のつなぎがあるのは、「慧静堂システム」というのをこしらえたんよね。「慧静堂システム」というのは、ヴェトナム仏教会の方から呼びかけられて創った東洋医学の学校です。ヴェトナムではもちろん西洋医学もあるけれども東洋医学が主流なんよ。東洋医学の担い手がお坊さんなんだ。「慧静堂システム」は寺院内で活動するんだけども、その慧静堂の医療、生徒をこしらえる施設が、サイゴンの法華寺というお寺に教室が置かれてあって。その一角で、慧静堂の勉強をしようとするお坊さんを集めて、医療学校を作っとった。主として鍼灸(しんきゅう)です。それで、鍼灸するのに設備はあるけれども、授業料の払えない学生がいると。熱意はあるんだけども。ヴェトナム仏教会としては、そういうのを無料で育てるほどの財力はないから、「それを何とか助けてもらえんか」っていう呼びかけがあった。年間40万円ほどあったら十分やと。もっと少なくても済むかもしれない。ということで、仏大の、現在、社会学部の教授になっている高橋伸一先生が中心になって、「慧静堂システムを、われわれで応援しようやないか」と、京都でプロジェクトを立ち上げた。だから京都から何回も行ってるわけよ。

 あんたら若い人は電磁波で、この辺りに電極をつけて、電流通じて、「ぴぴぴぴ」つうのは受けたことないやろうけど。筋肉がやられててここの筋肉を活性化したいときに、筋肉の神経の筋をちゃんと見てプラス・マイナスの電極をつけ、電流を通じると、「ぴっぴっぴっぴ」って動き出すわけやな。それによって筋肉を刺激して、活性化させて。京都でつくられたごく初期的なものを持ってったら、翌年にはちゃんと海賊版ができてた。「生徒たちが作りました」言うて。

 

(岩間註:慧静堂はヴェトナム仏教会が進める社会事業の一環として運営された無料医療施設。ヴェトナム仏教会は1980年代後半に、医療の恩恵を受けることのできない民衆のために全国の都市や農村部に慧静堂の設置を進め、京都の仏教徒はこれを共同プロジェクトとして支えてきた。)

 

酒井 はあ、すごいですね。

 

宮城 うん。そういうもんだとか、ピストル型のやつで、部分的なそういうことできる。引き金引いたら、そこんとこ「びびびびびび」となるやつね。だとか、そんなものも、こちらから持ってたりしましたが。すぐ、向こうは作るわ。

 もちろん支援金も渡す。そのときには、「京都から支援の代表団が来た。高橋先生、宮城先生、何とか」と言ってね。もう何かというと、そんな狭い会場やったらスピーカー要らんやないかと。あっても、そんな大きな声出さんでもいいやないかと思うんだけども、狭い会場に、外まで聞こえるような割れんばかりの大きなスピーカー付けて、「入れ、われらの同志何とかー」ちゅうような形でやらはるわけやわ。そして、そのお寺にまず到着すると、南ヴェトナムの方では、あれは、多分に中国的やなと思ったけども、ぬいぐるみのような、こんなん着て、子供の顔した、にこにこっとした大きなのを付けて、ピカピカと道教のような民族衣装着けて、太鼓に合わせて踊りまくるんよ。その横では、龍ね。中国でやるでしょ。龍をこう、くにゃくにゃくにゃくにゃ、と。その龍が出て、みんなで、こう踊りまくるわけよ。にぎやかなの。とにかくチンドンジャンというやつで。そうした式で踊ったら、僕らが中へ入る。部屋へ入って、学んでいる学生たちもみんな一緒に集まって、そこで支援金の伝達儀式が始まる。好きやね、儀式やそういうのが。そのときに紹介される。紹介されたら一言、ちょっと挨拶をする。それがまたヴェトナム語に通訳されて、みんな、「うわーっ」となるわけや。

 そのあと、ずっと、整備されている院内、それから授業を受けている学生たち。そういうものを見て回る。

 

岩間 それは、何年ごろのことですか?

 

宮城 うーんと……。それは、ちょっと後で資料あげますわ。

 

岩間 ありがとうございます。

 

宮城 1990……、とにかく、まとめて置いてあるさかいに、書いたんでちゃんと見たほうがいいです。間違いないですね。ちょっと、そういう資料を持ってきて話したほうがええかもしれんな。全部話してから資料見せるよりも。

 

(岩間註:いただいた資料によれば、共同プロジェクトが始まって宮城師らが慧静堂システム開校式のためにヴェトナムを訪れたのは1994年。)

 

宮城 それで、だいぶ、最初にヴェトナムの反戦運動っていうふうにおっしゃったわね?

 

岩間 はい。

 

宮城 反戦活動っていうのは、僕らは、実は、ここではベ平連のように活動してないんですよ。

 

岩間 救援活動がメインという感じですね?

 

宮城 どっちかというと支援という形で。それと交流という形なんですね。ただ、結果的には反戦という部分になるわけでね。

 最初のヴェトナム行ってきたときなんかは帰ってきてすぐに、御池の河原町にあった、あれは京都銀行かな、そこのロビーで写真展をやったの。これは反響あった。その頃の北ヴェトナムを伝えるニュースってあらへんのやからね。そういう訴えの中から、反戦が感じられていったやろと思う。広い意味で友好交流も反戦なんでね。

 

岩間 74年以前っていうのは、つまり60年代は、京都の仏教者の方たちはどんな活動してたんですか?

 

宮城 京都仏教徒会議というのがありまして。その中で、ヴェトナムのゴ・ディン・ジエム政権を非難し、常にヴェトナム支援のコメントを出しており、「ヴェトナムからアメリカが手を引くべきだ」というふうな声明を出したり。いろいろな側面的な支援をね。そういう中で、京都宗平協の生みの親みたいな細井友晋さんは、僕らよりもずっと前に行って、ホー・チ・ミンさんと会談もしてはる。1974年のベトナム救援京都仏教徒委員会が活動していたときは、京都仏教徒会議からだけではなしに、京都宗平協も動いてるはずですわ。京都宗平協は、来年が50年ていうことは、1960年に発足やな。だから、その頃、京都宗平協も中心になってたと思うわ。ヴェトナム仏教会に渡すお金を集めるのに。京都仏教徒会議と両方でやってるわ。

 

酒井 はい。

 

宮城 宗平協っていうのは、今でも活動計画の中に「ヴェトナムとの友好」っていうのがあるやろ? 

 

酒井 はい。

 

宮城 それで、「来年はヴェトナムへ行こう」という話が、こないだ沖縄会議で出た。

 

酒井 連れてってもらえませんか?

  

宮城 どういうふうな形になるかは別として、日本宗教者平和協議会も50年を迎えると。「それを記念して、日本宗平協でヴェトナム交流をやらんか」というのが、大阪の参加者からこないだ出たんや、沖縄で。

 

酒井 はい。

 

宮城 京都もちょっと今乗り気になってるわ、事務局は。

 

酒井 はい。

 

宮城 「それは、いいですね」ということで、「何とかやりましょう」というような声が出てる。京都にちょうど高橋さんがいやはるさかい、そんなに難しい問題ではない。僕は、実現すると思うわ。

 

酒井 はい。もし、その時ご一緒できれば大変うれしいです。

 

宮城 そう、やるとすれば、ここの行事のないときにやる。

 

岩間 とても楽しみですね。

 本日は貴重なお話を聞かせていただきありがとうございました。

 

 

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参考資料

宮城泰年(1975)「ベトナム民主共和国に招かれて(一)第一次復興計画の北ベトナム」『本山修験』、pp.13-19

宮城泰年(1975)「ベトナム民主共和国に招かれて(二)=ベトナムに学ぶ=」『本山修験』pp.22-27

宮城泰年(1975)「ベトナム民主共和国に招かれて(三)北ベトナムの仏教徒と交流」『本山修験』pp.30-36

京都・ホーチミン両都市仏教徒による協同プロジェクト推進委員会、「ベトナムの東洋医学生に支援の手を」(パンフレット)

 

 

 

    著書