王朝時代①

 

 ヴェトナムでは、紀元前2879年に文郎国という国が建国されたという歴史観がある。そして文郎国は紀元前257年に甌雒(おうらく)国に併合された。紀元前3世紀には甌雒国が番禺(今の中国の広州)を都とする南越国に滅ぼされた。

 

 このあたりの内容はヴェトナムの歴史教科書にも掲載されており、そう主張する歴史学者もいるが、確証は得られておらず、日本のヴェトナム史研究者の間では「伝承」「伝説」だと見るのが一般的である。

 

 紀元前111に南越国は前漢に滅ぼされた。

 

 漢の支配を受けなかった地域では、1世紀末にカンボジアからヴェトナム南部にかけて扶南(フナン)が、2世紀末にはヴェトナム中部にチャム人の国家チャンパが建国された。

 

 漢に支配されたヴェトナム北部では、紀元後40年、ハノイ西方の地域指導者の娘、チュン・チャクとチュン・ニーの姉妹が、漢の地方官の暴政に起こって反乱を起こした。これが有名なハイ・バ・チュン(チュン姉妹)であり、現在でもヴェトナムにはハイ・バ・チュン通りと名のついた通りや、彼女らを祀る寺院が数多くある。

 

 しかし漢人によるヴェトナム支配はこの後も続く。

 

 唐の時代になると679年に安南都護府が設置され、安南に対する統治が強化された。この間も、現地の豪族や少数民族の反乱は相次いでいた。

 

 唐王朝が滅亡し、動乱時代に入ると、安南でも独立への動きが激しくなった。そして938年に呉権(ゴー・クエン)が漢軍を打ち破り、独立して王となった。

 

 ヴェトナムでは紀元前111年から938年までの中国に支配されていた時代は北属時代または北属期と呼ばれ、暗黒時代として扱われている。

 

 

 呉権が944年に没すると再び混乱が始まり、土着勢力が群雄割拠して抗争する時代が続いた。

 

 1009年、ハノイに近いバクニン出身の将軍であった李公蘊(リー・コンウアン)がハノイに李朝を開いた。この時の中国の王朝であった宋は、朝貢国として李朝を承認した。その時採用された国号は「安南国」であったが、ヴェトナム人自身は満足せず、国内では「大越(ダイベト)」という国号を使用した。

 

 

 

 

参考文献

石井米雄・桜井由躬雄編『東南アジア史Ⅰ』山川出版社、1999

石井米雄他監修『新版 東南アジアを知る事典』平凡社、2008

今井昭夫・岩井美佐紀編『現代ベトナムを知るための60章』明石書店、2004

小倉貞男『物語 ヴェトナムの歴史』中央公論新社、1997

桐山昇他編『東南アジアの歴史』有斐閣、2003 

 

 

 

 

    著書