植民地時代③

 

 第二次フエ条約によってヴェトナムはフランスの保護国になったが、清軍・阮朝軍の抵抗は続いていた。フランスは福建や台湾を攻撃し、1885年の天津条約によって清国のトンキンからの撤兵、フランスのトンキン・アンナンにおける保護権を認めさせた。

 

 こうして、フランスの理事長官の管理下に置かれた保護領北部トンキン、保護国化された阮朝が存在する中部アンナン、すでに直轄領になっていた南部コーチシナと、保護国カンボジアの四者を合わせて仏領インドシナ連邦が形成された。さらに1893年に保護国としたラオスを1899年に、1899年に中国から租借した広州湾(現・広東省湛江市)を1900年に、仏領インドシナ連邦に編入した。

 

 ヴェトナム人は決して従順に支配されていたわけではなく、全土で抵抗運動を繰り広げたが、フランスの圧倒的軍事力には歯が立たなかった。19世紀末には阮朝復興を掲げる勤王運動もほぼ終息し、20世紀に入ると、ヴェトナムの知識人の間には、ヴェトナムの独立のためにはまず西洋文化を取り入れ、富強な国になるべきだという考えが生まれた。こうしてヴェトナムの近代化運動が起こってくる。

 

 東遊運動(ドンズー運動)もその流れで登場したものであった。東遊運動は、ヴェトナム人青少年を日本に留学させ、日本の近代化を学ばせようという運動である。もともとは日本政府に武器援助を求め、1905年にファン・ボイ・チャウらが来日したことに始まるが、犬養毅らと接触するものの武器援助は不可能だと分かり、ヴェトナム青少年の日本への留学を呼び掛けたのである。200人以上が来日したと言われる。

 

 ところが、日本とフランスの接近によって東遊運動は難局を迎えることになる。1907年、イギリス、フランス、ロシアの間で三国協商(Triple Entente)が成立した。露仏同盟(1894年)、英仏協商(1904年)、英露協商(1907年)の成立により形成された体制である。三国協商は、ドイツ、イタリア、オーストリアによる三国同盟(Triple Alliance)に対抗するものであった。

 

 協商国は日本を味方に引き入れることを考え、すでに存在していた日英同盟(1902年)に加えて、1907年に日仏協約、日露協約が調印された。日仏協約では、アジアにおけるお互いの勢力範囲を承認し合うことが確認された。

 

 東遊運動にすぐに変化があったわけではない。むしろ1907年から1908年にかけて運動は最盛期を迎えた。しかし激しくなったヴェトナム国内での運動が弾圧されるにつれて、フランス当局は東遊運動にも手を入れ始めた。ヴェトナムにいる親から日本にいる息子に帰国を促す手紙を書かせ、多くが自発的に帰国した。

 

 1909年に入ると、フランスは東遊運動に関する情報を日本に渡し、調査協力を要請した。すでに少数になっていた残留者に対して、日本当局の厳しい監視が続けられた。

 

 1909年3月、ファン・ボイ・チャウは日本を出国し、暫く香港に滞在した後、広州へと移動した。その後、タイの田舎で生活すること一年、1911年10月に辛亥革命が起き、翌1912年1月に中華民国が成立、2月には宣統帝が退位して清朝が滅亡した。ファン・ボイ・チャウは広州へと戻った。

 

 1912年、ファン・ボイ・チャウらは1904年に結成していたヴェトナム維新会を解散しヴェトナム光復会を新たに設立した。維新会はヴェトナム独立後の体制として立憲君主制を掲げていたが、光復会は新生中国からの支援を獲得するためにも共和制を掲げた。

 

 

 

参考文献

石井米雄・桜井由躬雄編『東南アジア史Ⅰ』山川出版社、1999

小倉貞男『物語 ヴェトナムの歴史』中央公論新社、1997

白石昌也『日本をめざしたベトナムの英雄と皇子』彩流社、2012 

古田元夫『ベトナムの基礎知識』めこん、2017

松本信広『ベトナム民族小史』岩波書店、1969  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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